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火薬 火薬・爆薬の歴史

無煙火薬(その2)

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不安定なニトロセルロースを安全な火薬に仕立て上げたB火薬も、生のニトロセルロースよりはマシという程度。

溶媒が揮発してしまうと危険なことには変わりなく、B火薬の暴発が原因で戦艦が失われるほど洒落にならない大事故も起こっていました。

戦艦イエナ。B火薬の暴発で120人が死亡。艦も沈没。火薬スキャンダル (l’affaire des poudres)に発展して海軍大臣が辞任した。
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戦艦リベルテ。B火薬の暴発で200人が死亡。吹き飛んだ装甲板で200m離れたところに停泊していた戦艦レピュブリクが損傷。
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とばっちりを受けた戦艦レピュブリク
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そんな危険なB火薬に代わる安全な無煙火薬を発明したのは、三人のイギリス人化学者、サー・フレデリック・エイベル、ジェイムズ・デュワー、ウィリアム・ケルナーでした。

サー・フレデリック・エイベル(Sir Frederick Augustus Abel、1827~1902年)。掴める頬髭。
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サー・ジェイムズ・デュワー(Sir James Dewar、1842~1923年)。
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1889年、イギリス政府の爆発物委員会(Committee on Explosives)の委員長だったエイベルは、ニトロセルロースとニトログリセリンを基剤とし、安定剤としてワセリンを追加してアセトンで溶かして練り上げた、コルダイト(cordite)と呼ぶ新しい無煙火薬をデュワーたちと共同で発明しました。

ニトロセルロースの製造には必要な硫酸と硝酸も、製造後は不安定にさせる余計もの。エイベルとデュワーは、ニトロセルロースから硫酸と硝酸を除去する製造工程を確立して、無煙火薬の安定化に成功しました。

ニトロセルロースとニトログリセリン、2種類の基剤を使うことからダブルベース無煙火薬と呼びます。

細長い形状のため発明当初はcord powder(ひも火薬)と呼ばれていたようです。粉じゃなくても火薬 = パウダーなのですね。

薬莢から取り出したイカそうめんコルダイト。
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コルダイトを初めて採用した兵器は、イギリスの.303ブリティッシュ弾の第一世代Mark I。

.303ブリティッシュ弾は1889年から1950年代まで長きに渡って英連邦各国で使われ続けたベストセラーです。

小銃弾以外にも散弾の実包や戦車砲や大砲の砲弾、対空噴進弾の推進剤としても使われています。銃砲以外で、パイロットの緊急脱出時にシートを射出するのにも。

.303ブリティッシュ弾
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戦艦ネルソン(HMS Nelson)の主砲塔の上に設置された噴進弾の発射機
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噴進弾。
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特許権の侵害で訴えられたコルダイト

ダブルベース無煙火薬のコルダイトは、ニトロセルロースに加えてニトログリセリンも基剤としています。

狭心症の治療薬でもあるニトログリセリンは、ニトロセルロースと同じ硝酸エステル類に分類される無色透明の液体です。危険物取扱者甲種か乙種5類の免許が必要な危険物。

【爆発】ニトログリセリン爆発集

ニトログリセリンは、イタリアの化学者アスカニオ・ソブレロが1846年に史上初めて合成しました。

アスカニオ・ソブレロ(Ascanio Sobrero、1812~1888)。こういう顔の芸人がいたような気がしなくもないけど思い出せない。
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発明した当初はパイログリセリン(pyroglycerine)と呼んでいたニトログリセリン。発明者のソブレロは「やべーもん作っちゃったよ!」とビビってしまい、1年以上発表しなかったり、「(つかっちゃ)駄目、ゼッタイ」と機会あるごとに訴えていたとか。

そんなソブレロですが、できたニトログリセリンを「まずは舐めてみる」を自分で実践するあたり、あなたも相当やばいですよ。

ソブレロがニトログリセリンを舐めたところ、こめかみがズキズキ。毛細血管が広がったからです。狭心症の薬になるというのも納得。

ソブレロは1850年頃にパリに留学して、テオフィル=ジュール・ペルーズという化学者の研究所で研究しているのですが、その時の同窓にアルフレッド・ノーベルがいます。ノーベル賞のノーベルです。

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel、1833~1896年)。爆薬王。死の商人。スウェーデン人。
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ノーベルは武器の生産で一財産をなした死の商人でもあるのですが、彼を有名にしたのはダイナマイトの発明です(1866年)。

砕石場 ダイナマイト爆発

作った当人のソブレロがビビってしまうくらい、ニトログリセリンは取り扱いが難しい不安定な爆薬でした。たった1滴でビーカーが粉々になるくらい。

ノーベルは、ニトログリセリンとニトロセルロースを混ぜてゲル状にしたものを珪藻土に染み込ませて安定化し、爆発させたいときだけ雷管を取り付けて爆発させられるようにしました。

珪藻土のバスマット。よく水を吸う。いつもサラサラ。

爆弾魔ノーベルはその後も爆発物の研究を続け、1875年には、ダイナマイトよりも安全な世界初のプラスチック爆薬、ゼリグナイト(Gelignite)を発明しています。

さらに1887年には無煙火薬のバリスタイト(Ballistite)を作りました。コルダイトの2年前です。バリスタイトの基剤はニトログリセリンとニトロセルロース。ダブルベース。

そう、エイベルたちを訴えたのはノーベルです。

バリスタイトとコルダイト、どちらもニトログリセリンとニトロセルロースを基剤とするダブルベース無煙火薬です。2年前に特許取得ずみのノーベルの方に分がありそう。

両者が似ているのは当然。無煙火薬の研究をすすめるにあたり、エイベルたちはいろんな先行研究の成果を取り寄せて調べていました。当然バリスタイトも。参考にしたであろうことは想像に難くありません。

発明当初のコルダイトは、「爆発物委員会の改良版バリスタイト(the committee’s modification of ballistite)と呼ばれていたくらいなので、胸を張ってまったく別物と言えるようなシロモノではなかったのかもしれません。

資料によっては、ノーベルが開発に協力したのにないがしろにされたというような説明もあります(ドイツ語版Wikipedia – Google翻訳でざっくり読んだだけなので詳しい経緯はわからん)。

https://de.wikipedia.org/wiki/Ballistit

裁判所では決着がつかず、貴族院(国会の上院)に持ち込まれた勝負でノーベルは負けました。

イギリスの国会議事堂@ロンドン
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ノーベルの特許では、ニトログリセリンと混ぜるものを「衆知の溶解する物質(of the well-known soluble kind)」と定義していたのが負けた理由。

溶解する物質の意味するところは、溶けるニトロセルロース。溶けるニトロセルロースといえば、一般的には写真の湿板や医療分野で使うコロジオン(ニトロセルロースをエタノールとジエチルエーテルの混合液に溶かしたもの)。

一方、コルダイトのニトロセルロースはinsoluble(不溶性)。

ノーベルが特許の中で「衆知の溶解する物質」という表現を使っていたので、「それってコロジオンのことだよね?コルダイトにコロジオンは使ってないよ」という理屈で、「コルダイトとバリスタイトは別なもの」という沙汰となったようです。

「衆知の溶解する物質」の使用例としてセルロイド(溶ける方のニトロセルロースと樟脳が原料)を挙げていたのもまずかった。

溶けるニトロセルロースと溶けないニトロセルロースをノーベルが厳密に区別していたことの証拠とみなされてしまい、ノーベルのはコロジオン、エイベルのはコロジオンじゃないから別モノ、という主張を裏付けることになってしまったらしい。

あ~あ、やっちまったなぁ(クールポコ。)、という感じのノーベルさん。

とはいえ、政府肝煎りの研究をしている貴族のエイベルと大富豪とはいえ外国人のノーベル。裁きの場は国益を追求する人たち()が集う国会。事実はどうであれ結論は最初から決まっていたのかもしれません。

【ゆっくり科学者解説】 アルフレッド・ノーベル ゆっくり解説

生涯に350もの特許を取得したノーベルは、特許絡みで訴えたり・訴えられたりすることが多かった(それだけ聞いたらパテント・トロールみたい)。

過去の訴訟で弁護士との意思の疎通がうまくできなかったせいか、弁護士をあまり信用していなかったらしく、遺言も弁護士の助言なしで作った結果、矛盾する記述が多くて相続執行人を困らせたらしい。

「意思の疎通がうまくできなかったから信用していなかった」というよりは「信用していなかったから、うまく意思の疎通ができなかった」のかもしれないし、「たまたまやっちゃった」というよりは「まぁ、そうなるわな」というような失敗だったのかもしれない。

イスラエル建国とコルダイトの意外な関係

コルダイトの製造にはアセトンが必要。

1914年に第一次世界大戦が始まるとコルダイトの需要が急激に高まりましたが、木材を原料とするアセトンの安定供給に難がありました。

困ったイギリス政府を救ったのが、ユダヤ人化学者のハイム・ヴァイツマン。

ハイム・ヴァイツマン(Chaim Azriel Weizmann、1874~1952年)。初代イスラエル大統領。
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ヴァイツマンは、デンプンからアセトンを合成するバクテリア発酵法を確立して、アセトンの大量生産を可能にしました。

この功績がきっかけでイギリス政界の要人とつながりができてチャーチルとのお付き合いが始まり、ユダヤ人のパレスチナ入植をイギリス政府が公式に支持するというバルフォア宣言(1917年)につながったと言われています。

第二次世界大戦後の1948年5月14日にイスラエルは中東のパレスチナで建国し、ヴァイツマンは初代大統領になりました。

イスラエル独立宣言の会場。署名しているのは初代首相のダヴィド・ベン=グリオン。マパイ(イスラエル労働党)所属。ポーランド系ユダヤ人。
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無煙火薬(その1)

中国で発明されて以来1000年以上世界中で使われ続けている黒色火薬の大きな欠点は、煙の多さ。

戦列歩兵が一斉射撃すると煙幕をはったかのような白い煙であたりが覆われてしまい、視界は遮られるし、居場所がすぐに敵に知られてしまいます。

映画『パトリオット』

電気通信の技術が無い時代、離れた場所の友軍に命令を伝えるには、伝令を送るか人間の視覚に頼った光通信しか手段がありません。

旗や腕木を使って情報を送信し、受け手は肉眼や望遠鏡で確認して命令を実行する。煙に遮られてしまうと使い物にならない。

手旗信号
革命時代のフランスで発明された腕木。
フランス中に設置されて、パリ~ブレスト間(約550km)をたった8分でつないだ。
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腕の角度に意味(情報)をもたせて隣の腕木小屋へ伝達。隣の腕木の人は望遠鏡で確認して自分の腕木を同じ角度にして次の腕木へ・・・

黒色火薬が主流だった1000年以上もの間、何も進歩がなかったわけではありませんが、材料はずっと硫黄・木炭・硝石。

より大きなエネルギーを取り出せる配合比率の研究や、入手コストの高かった硝石の生成方法の改良にパラメーターが全振りされていた感があります。

「化学の世紀」と呼ばれる19世紀になると状況が変わってきます。

あらゆる物質は原子・分子・イオンで構成されている。今の中学生が理科の授業で習うアタリマエなことが当たり前になってきたのは19世紀です。せいぜい200年前。

ジョン・ドルトン(1766~1844)。イギリスの化学者・物理学者・気象学者。原子説を提唱。
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アメデオ・アヴォガドロ(1776~1856)。サルディーニャ(イタリア)の物理学者、化学者。分子説を提唱。
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マイケル・ファラデー(1791~1867)。イギリスの化学者、物理学者。イオンを発見。見た目が一番まとも。というかイケメン(絵じゃん)。
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物質がどんなふうにできていてどんなもので構成されているかわかってきて、化学反応を利用して自然界には存在しないいろんな物質を作れるようになってきて、爆発する物質を発明するマッドサイエンティスト化学者がいっぱい現れました。

そんな時代のフランスで「無煙火薬」と呼ばれる夢のような火薬が発明されました。

無煙といっても煙が全く出ないわけではありませんが、黒色火薬と比べれば煙が「無い」といっても差し支えないくらい少なかったのです。

この時期に発明された無煙火薬は、ニトロセルロースやニトログリセリンなどの硝酸エステルと呼ばれる化合物が主成分。

硝酸エステルは自然分解で発生する酸化窒素が原因で自然発火する危ない物質。日本国内では危険物取扱者の資格(甲種か乙種5類)が必要な自己反応性物質(硝酸エステル類)に分類されています。

初めて実用化に成功した無煙火薬は、ニトロセルロースを使ったB火薬(Poudre B)です。

作ったのはフランスの化学者ポール・ヴィエイユ(Paul Marie Eugène Vieille、1854~1934)。パリの火薬硝石中央研究所( Laboratoire Central des Poudres et Salpetres)で所長をしていた1884年に、ニトロセルロースにエタノール、エーテルを混ぜて作りました。

最初はヴィエイユのVでV火薬と呼んでいたようですが、黒色火薬じゃないから白(blanche)だってことでB火薬と呼ぶようになったとか。全然白くないんですけどね。むしろ黒色火薬のほうが白い煙出すし。

ボール・ヴィエイユ(Paul Marie Eugène Vieille、1854~1934)
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最新鋭の無煙火薬だってことを他国(特にドイツ)に察知されないための名前付けだったという説もあります。

1884年のドイツといえば無敵の鉄血宰相ビスマルクが率いていたプロイセン王国。フランスは13年前、普仏戦争(1870~1871年)でプロイセンにコテンパンにやられてますし、相当ドイツのことを警戒していたのでしょう。

オットー・フォン・ビスマルク(Otto von Bismarck、1815〜1898)。「賢者は歴史から学び愚者は経験からしか学ばない」
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ヴィエイユの発明したB火薬は1種類の基剤(ニトロセルロースだけ)でできているためシングルベース無煙火薬と呼ばれています。

ニトロセルロースは、B火薬発明の39年前、1845年にクリスチアン・シェーンバイン(Christian Friedrich Schönbein、1799~1868)というドイツの化学者が発明しました(というか偶然発見)。

シェーンバインはドイツ生まれのドイツ育ちですが、その時はスイスのバーゼル大学の教授でした。でも発見したのは自宅の台所。

混酸(硝酸と硫酸を1:1で混ぜたもの)をうっかりこぼしちゃったので綿製のエプロン(つまり、セルロース。植物の細胞壁や植物繊維の主成分)で拭き取って、ストーブで乾かそうとしたら一瞬で燃え尽きたそうな。

台所で実験するのは奥さんに禁止されてたのに(そりゃそうだよね)、時々こっそりやってたらしい。エプロンを燃やしちゃったのはどう言い訳したのか。

クリスチアン・シェーンバイン(1799~1868)。恐妻家。ドイツ生まれの化学者。酸素(O2)とオゾン(O3)が同じ酸素原子から構成される同素体であることも解明した。
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ニトロセルロースは綿状なので綿火薬(めんかやく, guncotton)と呼ばれることもあります。日本では窒素の割合に応じて、10%未満なら脆綿薬、13%以上は強綿薬、その中間を弱綿薬と分類しています。

ニトロセルロース。めっちゃ燃える。
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ニトロセルロースの主な用途は言うまでもなく火薬ですが、世界初の高分子プラスチック、セルロイドの原料でもあります。当然良く燃える。

より安全な合成樹脂が発明されるまではメガネフレームやおもちゃ、映画や写真フィルムなど、様々な分野で使われていました。

お札とかが一瞬で燃えてなくなる手品もニトロセルロースを使うそうです。
童謡『青い目の人形』 あおいめをしたおにんぎょうは、アメリカうまれのセルロイド♪

話をB火薬に戻します。

ニトロセルロースが黒色火薬に代わる新型火薬になりそうというのは、シェーンバインが発見した当初から誰もが認めるところでしたが、ちょっとした刺激で意図せず燃えだす不安定なニトロセルロースは扱いにくく、火薬として実用化できずにいました。

そんなニトロセルロースを安全に取り扱える火薬に仕立て上げたのがヴィエイユです。

最初のB火薬(というかV火薬)は、コロイド状にしたニトロセルロースをエタノールとエーテルの混合液にひたしてゲル化し、安定剤としてアミルアルコールを混ぜたものでした。

安定剤は硝酸エステルの自然分解で発生する、自然発火の原因となる一酸化窒素や二酸化窒素を吸収してくれます。

ゲル化したブツをローラーで薄く延ばして、乾いたら細かく刻みます。

粒状のB火薬
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B火薬の実用化を一番喜んだのはフランス陸軍。プロイセンに負けたとはいえ、フランスはブルボン王朝の絶対王政の時代から陸軍大国。当時も健在です。

B火薬は世界初の無煙火薬。そんな最先端の火薬を採用した小銃弾(8×50mm Rルベル弾)と、それを撃つための最新の小銃(ルベルM1886小銃)をたった2年後の1886年には正式採用しています。

当然ですが、ルベル弾とルベルM1886小銃は世界初の無煙火薬を使う武器です。

1890年頃のルベル大佐。連発銃委員会(Commission des Armes à Répétition)の委員。ヴィエイユも委員だった。
パブリックドメイン@Wikipedia
ルベルM1886小銃 The Swedish Army Museum
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8×50mmR ルベル弾
Lax(CC BY 1.0@Wikipedia)
ルベルM1886小銃の開発秘話と構造の解説動画

B火薬のBは当時の陸軍大臣ブーランジェの名前の頭文字も掛けているという説もあります。

ブーランジェ(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger、1837~1891年)。日和見で優柔不断な陰謀家。政府転覆のクーデター(ブーランジェ将軍事件。未遂)に担ぎ上げられたけど逃げた。
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V火薬改めB火薬はその後も改良が続き、1960年代まで使われ続けました。

  • 1888年 BF(NT)
  • 1896年 BF(AM)
  • 1901年 BN3F
    • 安定剤がアミルアルコールからジフェニルアミンに変更
    • BN3Fは第一次世界大戦(1914~1918年)でフランス軍が使ってました
  • 1920年以降 BN3F(Ae)、Poudre BPF1(~1960年代)

軍服が地味になった

黒色火薬の3倍のエネルギーを持つ無煙火薬の登場により、銃砲弾の初速は向上し、射程距離が伸びました。

同じ量で3倍のエネルギーということは、使用量を減らせるということでもあります。一発あたりの火薬量が減るので持ち運べる弾数が増えます。

それだけでも革命的な無煙火薬。軍事のパラダイムシフトと呼ぶ人もいるくらいの進化ですが、無煙火薬の真骨頂は、その名の通り煙が(ほとんど)出ないことと燃焼後の残渣が減ったことでした。

黒色火薬しかなかった時代、煙だらけになる戦場で敵味方を識別するため(同士討ちを防ぐため)、当時のヨーロッパ各国の軍服はハデハデでした。

無煙火薬が普及して、ある意味身を隠す幕煙の役割も果たしていた煙が出なくなると、派手な軍服は良い的です。

ということで、19世紀末あたりから各国の軍服は地味になっていきました。

第二次ボーア戦争の頃(1898~1902)。B火薬発明から14年。地味になった。

燃焼残渣(スス)が減ったことも重要です。

一発撃っただけでススだらけになり頻繁に掃除しなければいけない黒色火薬と違い、無煙火薬は何度も続けて撃つことができます。

そんな無煙火薬が19世紀に登場したというのはとても大きな意味がある。

19世紀、ナポレオン戦争の後のヨーロッパ各国・各地域は大きく再編中でした。

ほとんど名前だけになっていた神聖ローマ帝国が解散したあと大小さまざまな領邦国家と帝国自由都市がモザイクのように散らばっていたドイツは、プロイセンを中心にまとまりつつありフランスにとって大きな脅威となっていました。

イタリアが統一したのも19世紀です。どれもこれも、ナポレオン(フランス革命)の置き土産です。

ヨーロッパの列強各国はアジアやアフリカで植民地獲得競争中。20世紀の初め頃に日本とぶつかることになるロシアも、そのころはオスマン帝国・中央アジア・清の領土を侵食中でした。

フランス・イギリスがオスマン帝国の領内でロシアと衝突したクリミア戦争や普仏戦争のような例外はありますが、ナポレオン戦争後、ヨーロッパの列強同士が本国を侵略し合うような大きな戦争はほとんど起こらず、各国が国民国家として成長し軍事力を蓄え続けていたのが19世紀のヨーロッパです。

それが暴発するのが第一次世界大戦(1914~1918年)。

B火薬を発明したヴィエイユも参加していた連発銃委員会なんて組織があることから察しがつくように、短時間にたくさんの弾を撃てる銃砲が強く求められるようになっていました。

連発しても邪魔な煙や燃焼残渣が出ない無煙火薬の登場は、19世紀に登場した機関銃や速射砲といった自動火器の性能・信頼性の向上を力強く後押ししたのでした。

マキシム機関銃。世界初の全自動式機関銃。イギリス生まれのアメリカ人ハイラム・マキシムが1884年に発明。弟のハドソン・マキシムは無煙火薬の開発にも関わっていた。
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黒色火薬(その2)

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教科書的な黒色火薬の作り方

1.硫黄と木炭をボールミルに入れて、砕いて混ぜ合わせる

この作業を粉砕混和といい、2種類の原料を混ぜるので2味混和と呼びます。

ボールミルは、円筒形の容器の中に潰したい原料と硬いボール(セラミック製とか)を入れて、ひたすら容器を回転させて、ボールで原料を押しつぶしまくるツールです。

ボールミル。持ち上げられたボールが原料の上に落ちてきて粉砕。
Lưu Ly(パブリックドメイン@Wikipedia)
ボールミル
中はこんな感じ。

2.2味混和した硫黄と木炭に、今度は硝石を混ぜて、更にボールミルで砕いて混ぜ合わせる

3種類の原料を混ぜるので3味混和と呼びます。

硝石も入ってくるといよいよ危険です。燃えやすくなってます。この時のボールミルは木製で、内側に革張りした特殊なヤツを使います。静電気や火花防止でしょうかね。混ぜる時には水も入れます。

3.圧磨機でゴリゴリすりつぶす

ボールミルから取り出したブツを石臼のような圧磨機(あつまき)でゴリゴリすりつぶします。

打撃や摩擦には鈍感な黒色火薬ならではですね。圧磨器は数トンもあるので水力で回転させます。

圧磨機で作った記念碑(東京都板橋区)@Google Street View

江戸幕府に命じられてオランダへ留学していた沢太郎左衛門という人が持ち帰った圧磨機(ベルギー製)です。

明治時代になってからは、旧加賀藩の下屋敷跡に作られた陸軍砲兵廠板橋火薬製造所で、石神井川の水を使って火薬を毎日ゴリゴリすりつぶしてました。

加賀藩といえば白川郷の火薬村。何か関係あるんでしょうかね。旧加賀藩士の火薬製造エキスパートを召し抱えたとか。下屋敷の敷地の中に秘密の火薬製造工場があったのを接収したとか。

なにせ板橋区ですからね。中山道の最初の宿場があったくらいなんで、それなりに江戸の街からは離れてたんだろうし。そのうち調べてみましょう。

陸軍砲兵廠板橋火薬製造所の跡地は加賀公園という公園になってます。圧磨機の記念碑は加賀公園から徒歩5分くらいのところにあります。

教科書的ではない黒色火薬の作り方

ガレージで火薬を作っているところを顔を晒してYoutubeに上げてるヤツがゴロゴロ。やっぱり英語圏すげーわ。

黒色火薬のいいところ

黒色火薬のいいところは、やっぱり作るのが簡単なところ。

明治時代になる前は手作りです。製造工程に化学反応を必要としないため、化学が未発達だった前近代でも作ることができたのです。

あと安全性と保存・運搬のしやすさ。衝撃や摩擦には鈍感なので移動・運搬も安全。

化学的に安定しているので自然分解もしにくく、保管中に他の物質に変わったりしない。濡れても乾かせば使える。

でも、火薬は火で乾かしちゃだめ

火薬が原因の事故は古今東西いっぱいありますが、イングランドの火薬陰謀事件は間抜けさが際立ってます(1605年、Gunpowder Plot)。

火薬陰謀事件は、カトリック派の貴族がプロテスタント(イングランド国教会)の国王を議会ごと(化学的にも物理的にも政治的にも)ふっとばそうとして、議事堂の地下室に火薬を仕掛けた事件とそれに連動した反乱です。

議事堂の方は実行直前に発覚して実行犯は現地で取り押さえられたのですが、同時に地方で反乱を起こそうとしていた連中が、雨で濡れた火薬を乾かすために焚き火にさらして(えー)大惨事。

議事堂のほうが失敗して焦ってたんですかね。首謀者たちは大やけどを負いながらも兵を挙げましたが、結局は捉えられて処刑。

首謀者たち
イングランド王ジェームズ1世。狙われた人。
ガイ・フォークスの処刑。議事堂の地下で捕まった人。絞首刑のあと、まだ意識があるうちに降ろされて去勢されて内蔵を引きずり出された(グロ)。
絵の中の左の方、建物の手前で寝かされて捌かれている人。
おまけ。アノニマスな人たち。ガイ・フォークスマスクを着用。

黒色火薬の欠点

黒色火薬の欠点は、燃焼時の煙です。19世紀に登場した新型火薬が「無煙」火薬と呼ばれるくらい、それまでの火薬は煙がすごかった。

無煙火薬も煙が全く出ないわけではありません。でも、それまでの黒色火薬と比べると見た人がみんな感動するくらい少なかったから「無煙」と呼ばれたのでしょう。つまり、黒色火薬の煙それだけすごかった(今もすごい)。

火縄銃の実演を見ると分かる通り、結構な量の白い煙が発生します。

本物の火縄銃の発砲実演

長篠の戦いみたいに大量の鉄砲が一斉に発射したら、煙幕ばりの煙に覆われてしまっていたことでしょう。

ナポレオン戦争やアメリカ独立戦争、日本の幕末など17世紀~19世紀の戦争映画を見ると、戦列歩兵が一斉に発砲するシーンで煙だらけになっていることがわかります。

映画『パトリオット』

この時代の軍服がオウムかよ?ってくらい派手なのは、煙の中で敵味方を識別するためだったという説もあるくらいです。

18世紀のイギリス戦列歩兵。3倍速く走れるわけではない。
(パブリックドメイン@Wikiepdia)
ナポレオン帝政期フランス大陸軍の擲弾兵と歩兵
(パブリックドメイン@Wikipedia)
現代のイスラエル国防軍。地味だけど楽しそう。
(Flickr CC 表示-継承 3.0@Wikipedia)

もう一つの欠点は、硫黄を含んでいるため燃焼後に硫酸イオンが発生することと、燃焼後の生成物で簡単に詰まってしまうことです。

硫酸は、錆びにくいステンレスでも勝てないほど強力で、銃砲身や機構部分を腐食させてしまいます。

撃ったあとの銃砲はよく手入れしないと簡単に腐食してしまいますが、基地に戻ればできる手入れも、戦場ではそんな悠長なことやってられません。

燃焼後の生成物は、いわゆる煤(スス)です。

たかがススというなかれ。一発撃つだけで手や指で掻き出せるほどの量が発生するススを放っておくと、すぐに撃てなくなってしまいます。

やはりナポレオン戦争時代の戦列艦(帆船の軍艦)で、大砲を一発撃つたびにモップのような長い掃除道具を砲身に突っ込んでるシーンを、映画で見たことがある人もいると思います。

現代の黒色火薬

軍事利用という火薬界の花形(?)の座は次世代の火薬に譲った黒色火薬ですが、民生分野では今でも使い続けられているのは、黒色火薬ならではの有利な点もあるからです。

少量でも着火しやすく、熱を加えるだけ(火を付けるだけ)で着火できる簡便さ。燃焼ガスの発生速度が花火を打ち上げるのにちょうどよく、遅すぎず速すぎずと絶妙。

花火の他に、導火線の心薬としても使われています。

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黒色火薬(その1)

人類最初の火薬は古代の中国で発明、というか、偶然にできました。

「偶然」というのは、火薬を発明するために頑張ってたわけではなくて、他の目的でいろんな化学実験をしていたら「なんか、すごい燃える薬ができちゃんたんだけど、どうするよこれ?」ってな感じだったからです。

その時期は諸説ありますが、だいたい6世紀から7世紀にかけてだと言われています。日本だと古墳時代から飛鳥時代。大化の改新が645年(7世紀)です。

西暦850年頃に唐の時代の中国で書かれた『真元妙道要略』という本で、「硫黄と鶏冠石(二硫化砒素)、硝石とはちみつを混ぜて熱したら、家が全焼して本人も大やけど」「危険だから絶対にマネしないでください」という失敗エピソードが紹介されています。

有以硫黄雄黄合硝石并蜜焼之焰起焼手面及燼至舍者

硫黄と雄黄(硫化砒素を主成分とする石黄という鉱物から作られた顔料)を混ぜて、硝石とはちみつを加えて熱したら、手や顔をやけどして家も燃えちゃった人がいるよ。

この人が作ろうとしていたのは火薬じゃなくて不老不死の霊薬。『真元妙道要略』では、錬丹術師(不老不死を研究する人。錬金術師に近いイメージ)が研究していた35種類の霊薬の処方が紹介されています。

不老不死の薬を研究していろんなモノを混ぜていたら、よく燃える薬ができちゃった、というわけです。

なすすべもなく家が全焼してしまったのは、それほど燃えると思っていなくて消火の準備が不十分だったか、尋常じゃない速さで燃え広がったからか。多分、両方でしょう。

意図せずできてしまった尋常じゃないくらいよく燃える薬。混ぜた物質の中に、その後1,000年以上使い続けられる黒色火薬の原料に通ずるものが3つありました。

硫黄、硝石、はちみつ(炭素)です。

無煙火薬と称される高性能な次世代の火薬が19世紀に登場するまで、火薬の発明以来1,000年以上の長い間、黒色火薬(black powder)は火薬界のオンリーワンでした。

黒色火薬。見たまんま黒い粉。ヒネリなし。
Lord Mountbatten(CC 表示-継承 3.0@Wikipedia)

黒色火薬は、硫黄、木炭(はちみつと同じ炭素)、硝石を混ぜて粉や粒にしたものです。

これらは、火薬に必要な2つの要素、可燃物と酸化物です。

  • 硫黄と木炭は可燃物
  • 硝石(硝酸カリウム)は酸化物
硫黄
Rob Lavinsky(CC 表示-継承 3.0@Wikipedia)
備長炭。お米が美味しく炊ける。
STRONGlk7(CC 表示-継承 3.0@Wikipedia)
硝石(硝酸カリウム)
Walkerma(パブリック・ドメイン@Wikipedia)

熱や衝撃・摩擦など、外部から加えられた力をきっかけとして、(外部から酸素を取り込むのではなく)自身が持つ酸化物を使って可燃物が急激に酸化していくのが火薬の燃焼です。

火薬の進化の歴史は、効率よく燃焼させる可燃物(硫黄・木炭)と酸化物(硝石)の配合割合の探求と、効率的な生産方法の研究の歴史でした。

黒色火薬の配合割合

江戸の昔から続く日本の伝統的な花火職人は、火薬の適切な配合割合のことを「十二一(トニイチ)」と呼んでいました。

硝石(酸化剤)の分量を10とした時、木炭を2(硝石の分量の20%)、硫黄を一(硝石の分量の10%)とするという意味です。

出来上がった火薬を100%とすると、硝石77%、木炭15%、硫黄8%という計算になります。

硝石が8割を占めるんですね。ということは、硝石を安定的に入手できることが黒色火薬製造のキーとなります。

木材を蒸し焼きにして炭化させてつくる木炭は、森林資源の豊富な日本では日常的に使われる燃料なので、入手は難しくありません。

炭焼小屋
タクナワン(表示 – 継承 3.0 非移植 (CC BY-SA 3.0))

硫黄も、火山列島ニッポンではおなじみな鉱物資源です。平安時代の末期には中国の宋(南宋)への主要な輸出品の一つとなっていました。用途はもちろん火薬の製造。鎌倉時代の末期にモンゴル(元)が日本に攻めてきたのも、火薬製造のために必要な硫黄の入手が目的の一つであったというくらい。

余談ですが、花火大会でよく臭う「火薬の臭い」は、火薬が燃焼した時に発生する硫化カリウムが空気と反応して生成する硫黄化合物です。

知床の硫黄山
Washiucho(パブリック・ドメイン@Wikipedia)

大変なのは硝石(硝酸カリウム)です。中国やインドでは産出する硝石ですが、日本にはありませんでした。

日本で火薬の消費が急激に増えたのは16世紀の半ば、鉄砲が伝わってきた戦国時代の後半です。

全国の戦国大名が鉄砲を使うようになり、消耗品である火薬の需要を高価な輸入品だけではまかないきれないため、火薬の国産化が試みられるようになりました。そこで問題になるのが日本では産出しない硝石。

無いなら作ればいいじゃない!ってことで、日本の各地で硝石の製造が試みられました。織田信長とガチ勝負をしていた本願寺が関わっていたそうです。

材料は、人や家畜の糞尿・魚のハラワタを腐らせたモノ・干し草の灰・土などなど。

  1. 糞尿や腐ったハラワタからアンモニア(NH3)を取り出す
  2. アンモニアが土中のバクテリアの作用で亜硝酸HNO2に変化
    • 2NH3 + 3O2 → 2H2O + 2HNO2(亜硝酸の分子HNO2が2つ)
  3. 空気と触れることで酸化して硝酸(HNO3)に変化
    • 2HNO2 + O2 → 2HNO3
  4. 土中の酸化カルシウムCaOと反応して硝酸カルシウムCa(NO2)2に変化
    • 2HNO3 + CaO → H2O + Ca(NO3)2
  5. 灰の炭酸カリウムK2O3と反応して硝石KNO3をゲット
    • Ca(NO3)2 + K2CO3 → CaCO3 + 2KNO3(硝酸カリウムKNO3の分子が2つ)

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されている富山県五箇山・白川郷の合掌造り集落は、加賀藩の火薬工場でした。相馬藩(福島県)の火薬も有名でした。

白川郷
photoAC

明治時代になると南米のチリから安価な硝石が輸入できるようになり、国産の硝石は廃れてしまいました。

チリから輸入される硝石は硝酸カリウムではなく硝酸ナトリウム(NaNO3)ですが、一般にチリ硝石と呼ばれます(これまたヒネリなし)。

チリでしか採れない物質かと思いきや、微量ながら日本でも採れるようです。宇都宮市の大谷寺(おおやじ)に、重要文化財の磨崖仏(岸壁を掘って作った仏像)があります。

毎年春になると「いわしお」と呼ばれる白・緑・茶褐色のまざった物質が仏像の表面に現れ、梅雨時になると消えてしまうそうなのですが、「いわしお」の白い部分はチリ硝石なのです。

大谷寺の観音堂。周りの白い岩(大谷石)がチリ硝石を含んでいる。
あばさー(パブリック・ドメイン@Wikipedia)

現在市販されている黒色火薬の配合割合はだいたい次の通りです。

  • 硝石:60~80%(火薬の用途によってばらつきがある)
  • 木炭:10~20%
  • 硫黄:8~20%

黒色火薬(その2)へ続く